辻信一さんの『
スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化
』を読んでいる。
まだ途中だけど、「そうそう」と思うことがたくさんある。
今日読んでいた部分で強く「そう!」と感じた箇所を引用。
こうした「目的と手段」の関係から外れるものは「無駄」で「非効率的」と見なされるだろう。休むことや遊ぶことは、それ自体では時間の無駄だ。労働力の再生産や娯楽産業の繁栄のためになって初めて価値がある。怠けることはけしからん。ただ歩くために歩くとか、ただゴロリとなりたいからなるとか、ただぼんやりと景色をながめるとか、はナマケモノの所業。ただ生きる、生きているから生きている、ではすまされない世の中なのだ。
「奄美行って、何してるの?」と聞かれると、「別に。ボーッと海ながめてたり、集落の中を歩いたり……」と答えることがある。
すると相手は3通りぐらいの反応をする。
1)戸惑う。「……なんで?」
2)鼻で笑う。「へぇ〜 のんびりしてていいよねー」
3)得心する。「あぁ、いいねー」
1)の人は、「それで何を得られるのか?」が不思議でしょうがない。こういう人にとって、「得られるもの」は目に見える価値に置き換えられるものでないと納得できないようだ。
「海のグラデーションがきれいだから」とか「波のきらめきと、風と、鳥の声が聞こえる、それだけでしあわせ」なんて言うと、さらに混迷の度合いが深まってしまう。
「思索的あるいは詩的インスピレーションを得るため」とか言うと、けっこう納得されてしまうので、困るけど話を打ち切ることはできる。
2)の人は、「やっぱり南の島の人ってのんびりしてるよねー」とも言う。たぶん、あてもなく海をながめている人のイメージがあるのだろう。でも、そのことばにはトゲがある。ちょっと小馬鹿にした感じ。自分はそんなナマケモノじゃなく、もっと勤勉で生産的なことにいそしんでいる。社会的に意義のある活動をしているのよ。
「うらやましいわ」とことばでは言っていても、あてもなく海をながめることは苦痛。3分ももたない。無口にならずに多弁になる。一緒に旅行したら、「ここはもういいよ、はやくつぎに行こうよ、つぎはもうちょっとマシなもの見せてくれるんでしょうね」のオーラがムンムン出るタイプなので、「こんど連れて行って」と言われて、それがお愛想だと充分わかっていても、ぜったいに「ええ、ご案内するわ」などと答えず、曖昧な笑顔をお返しする。
3)の人は、少ないけどたまにいる。「そういう、何もしない時間って必要よね」とか、海はどんなかとか、天気によって色はどんなに変わるかとか、どんな鳥の声がどこからどんなふうに聞こえてくるかとか、せめて疑似体験でもさせてちょうだいな〜という人もある。
こういう人とは話がはずんで、「また聞かせてね、ぜったいよ!」となる(その「また」の機会が必ずめぐってくるわけでもないんだけど)。
こういう人との会話は、私も楽しい時間をもてたなーとうれしくなる。
私が島に行ってうれしいのは、ただ海をながめていても、だれもそれをとがめないからだ。「あ、海見てるのね」と認めてくれる。それも「海辺に人がいる」→「このシマの人じゃない」「この浜は景色がいい」→「海を見に来たんだろう」、という思考回路じゃなくて、海辺にじっとしてる人がいれば、海を見てることがわかりきってる、当然のこと、という理解だ。直感的というのでもない。日常の、当たり前すぎること。
上の引用からちょっと飛んでしまうのでわかりにくいかもしれないけど、この章の終わりも引用。
動物や植物が感じるように疲れ、それらが休むように休み、それらが眠るように眠る。おの根源的な快楽に立ち戻ったところで、もう一度自分の欲望や欲求の棚卸しをやってみる。その上で、またひとつひとつと積みたいものはゆっくり積み上げてゆく。
アタマの中がぐちゃぐちゃになって整理しきれなくなったとき、島で「あぁ、私がしたいのはこれだったんだ」と捉え直せるようになるのは、そういうことだったんだ。
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自分のブログでも書いたことあるのですが、僕は奄美リピーターのお客様達に島で何をするか聞くことがあります。
驚いたことに意外に多いのが「何もしない」なんです。
何もしない贅沢な時間を送るのに贅沢な場所。それが「奄美」だと言うのです。「島に行くことで心がリセットできる」という方もいます。
ある意味、究極な過ごし方だな〜と僕は思います。
2008-04-22(Tue) 15:44 | URL | 奄圓 #-[ 編集]