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びっくりしました。
父から、昔、古仁屋の大火の取材に行ったことがあると聞いたことはあったのですが、
まさかその写真があったとは。
父の家にあったたくさんのアルバム。娘がたまたま手に取って開くと
「お母さん、古仁屋だって」
鹿児島から船で、ずいぶんかかっていった。
名瀬から古仁屋も、船だったかな、バスだったかな、覚えてないな。
奄美の大きな町でたいへんな火事があったらしいから取材に行けって言われていったんだ。
どんな大きな町かと思ったら、小さな家ばかりで拍子抜けしたよ。
そんな話を聞きました。
昭和34年1月5日からの奄美入り。私が産まれる前の、古仁屋の風景。
古仁屋の裏の山に広がる段々畑。島で聞いた「戦争中は山の上まで畑にしたのよ」という言葉が、2ぺーじ目にあります。
大島海峡の向こうに加計呂麻島が横たわる姿は、いまも変わりません。
焼け落ちた瀬戸内町役場の周辺を歩く人々。
バナナが下がる店の奥には港が見えます。
真っ黒に焼けたサボテンは、炎の強さを物語っているのでしょう。
父が一緒に写真を撮った旅館の娘さんは、いま、どうしていらっしゃるでしょう。
そして、おまけ。
父の奄美土産を一生懸命持ち上げるのは、もうすぐ3歳になる兄。

きっとはじめて見るパイナップルだったんでしょうね。
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