喜山さんが「与論・奄美(琉球弧)ビジョン私案」として
「産む島・帰る島・逝く島」というビジョンを書いている。
◆「南のふるさと島」‐産む島・帰る島・逝く島‐
◇産む島 (与論で出産したい。)
産婆さんに介助してもらい、波の音を聞きながら、自然のリズムのなかで子を産む。
◇帰る島 (年に一度か二度は与論で過ごしたい)
田舎を持たない都市生活者の故郷になる。たとえば、夏休みは必ず与論で子どもたちと過ごす。産まれた場所ではないけれど、故郷として与論に来る。
◇逝く島 (人生の最期は与論で迎えたい)
最期は、病院ではなく、家で逝く。もし、家族がいなくても、お世話する人が家に引き取ってくれる。
「産む島」。そのことばから、子ども達の出産前後のことを思い出す。
娘を出産したのは、都内の病院。院内で開かれていたマタニティ・クラスで助産師さんが言った。
「昔はみんな、ふつうに産んでたのよ。お産は、病院に行くっていう特別なことじゃなくて、その人や周りの人の暮らしの一部だったのよね」
彼女は、いま(19年前)の妊婦さん達の、「自分はちゃんと産めるんだろうか」という不安に、「みんな、産む力をもっているのよ」と応えた。
そして出産直前。彼女は非番だった。でも彼女と親しい助産師さんが付いていてくれた。
その前夜は、待期室に入りきれないほど産婦さんがいたというのに、その晩はなぜか私ひとりだけだった。おかげで当番の助産師さんが、ずっと付き添ってくれていて、とりとめのない話をしながら、陣痛の最中にも大笑い。
「あれ? しばらく内診してなかったね」「あ、もう全開! 分娩室に行かなきゃ!」「いきんでー、ほら、顔でいきまない!」
そんなやりとりをしながら、娘はつるんと産まれた。
「初産がこんな楽でいいの?」そんなお産だった。
1週間の入院が終わるとき、退院する娘に「はい、服を着せてあげてね」と言われてから、パニックだった。そう、これからは私がこの子の面倒をみなきゃいけない。その現実を突きつけられたとき、私は不安でしょうがなかった。
実家に帰らず、夫はほとんど不在。その中で私は育児ノイローゼになっていった。
おっぱいを飲んではゲップができずに全部吐いてしまう娘を抱いて、どれだけ泣いたかわからない。4ヶ月ぐらい経った頃だったろうか。同じ頃に出産した友だちの家。彼女はお昼に冷やし中華を作ってくれた。その数日前まで、私もなんどか冷やし中華を食べようとした。でも、いつも作り終える頃に娘が泣き、授乳すれば吐いて泣く。その間に冷やし中華はのびきってしまい、毎回、涙と一緒に台所に流した。
あの頃、泣いている赤ん坊を、ちょっとでも抱いてくれる人がいたら、どれだけ助かったろう。
1年経って、私は赤ん坊の娘を連れて、人の集まりにできるだけ参加するようにした。そうしていろんな人に、ちょっとした悩みをこぼしたり、話を聞いてもらっては、励ましてもらった。そんな中で、娘もいろんな人にかわいがってもらい、そのせいか、いまはどんなに年が離れた人でもまったく人見知りせずにおしゃべりしている。もちろん本人の性格なんだろうけど、初対面の人とフランクにしゃべるのが苦手な私にとっては、驚異的にフレンドリーな娘だ。
息子のときは、自宅出産をした。「万が一のときはどうするの?」と心配する人もいたけれど、私には「大丈夫、私はぜったいに、ちゃんと産める」という自信があった。論理的な根拠はまったくなかったのに、一分の揺らぎもない自信だった。
もちろん、助産師さんが地元の消防署や病院と連携をとっていて、万が一の備えも万全だった。
出産の直前まで、私は垣根の剪定をしたり、ケーキをつくったり、ふだんとまったく変わりない生活をし、夜、助産師さんと夫の介助をうけながら、自宅の寝室で出産した。
自宅で出産するのは、ほんとうに気が楽だった(だからって、翌日から赤ちゃん抱いて原稿書いていいとは言わなかったでしょ! と助産師さんに怒られたけど)。
このときは娘も小学生になっていて、弟の面倒をずいぶんみてくれた。おかげで私は育児にまったく苦しむことがなかった。
産む。それは、人間が本来もっている力だ、という助産師さんのことばを、私は信じている。でもいま、人間が本来もっている力は、どんどん脆弱になっている。ことに都会で暮らす人は。
島で暮らす人の方が、よほど強い。いや、本来もっていたであろう力に近いというのだろうか。それは、島という、自然とともに暮らさざるを得ない場だからこそ培われ、また、島で暮らすには、不可欠な力だからだろう。
いまはどうなのか知らないけど、一時、ハワイで出産するのが流行ったことがある。ハワイの豊かな自然、ゆったりした時間の中で出産しましょう。子どもにもいいですよ、というようなことだったと思う(子どもが将来、アメリカと日本、どちらか好きな国籍を選べるのも「いいこと」のひとつだった)。
もちろん妊婦だから、8ヶ月までに渡航しなくてはならない。滞在費もかかる。でもそこでの暮らしに慣れることを考えれば、そのくらいの時間は必要だろう。
これを与論に当てはめてみると、出産までに「帰る島」として何度も訪れていれば、適応性も高くなる。「いつものあの場所(家)」という安心感は大きい。
そして、与論での過ごし方のひとつとして出産があり、子育てのスタートがある。
単に「出産する場」としてではなく、「帰る島」との連携があれば、与論はその人達のふるさとになるだろう。だからこそ、「逝く島」にもなり得るとすれば、「産む島、帰る島、逝く島」はそれぞれが分断されたものではなく、大きな循環になるだろう。
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